富山県は、かつては一家庭あたりの昆布の消費量日本一でした。
現在では青森など、産地に近い場所に抜かれています。
でも産地から遠く離れた北陸でなぜこんなにも昆布が食べられているのでしょうか。
かの地のスーパーでは昆布巻きの種類と量が豊富です。
それだけ各家庭に昆布が根付いているのです。
なぜ、富山で北海道の産物である昆布を食べるようになったのでしょうか。
それには昔の商流に秘密がありました。
北前船が富山へ昆布文化を運んだ!
富山はその昔、北前船による交易の中継地点の一つでした。
北海道から昆布や海産物を運んできた北前船が
- 中継地で補給のため、
- 現金確保のため、
昆布などを卸し販売していたそうです。
そして北前船は昆布を売ったお金で薬などの富山の産物を仕入れたのですね。
富山県から北海道への移住者が多い
また、富山県から北海道へ多くの人が移住しました。
この事も富山にさらに多くの昆布がもたらされる要因となりました。
明治に入ると富山県の次男三男は食い扶持を求めて北海道へ渡りました。
最初は利尻島へ渡って昆布の生産の従事しました。
そのうち根室や羅臼にも移住しました。
現在羅臼町の7割は富山県黒部市の生地をルーツに持つと言われています。
やはり昆布を生産して富山へ供給しようという思いがあったのでしょう。
また、普段から食していた昆布を生産したいという思いもあったのでしょう。
結果、さらに富山への供給が増えることになりました。
富山での昆布の利用方法
富山の昆布の食文化は独自に発展しました。
そのため富山県では昆布は
- にしん昆布巻
- 昆布で〆(しめ)た刺身
- とろろ昆布
など、魚の加工に昆布が多く利用されています。
珍しいところだと、鰻(うなぎ)の昆布巻き、なんていうのを見たことがあります。
(食べていませんので味はわかりません。)
江戸時代、中国へ昆布を輸出していた富山出身の船乗り「米田屋治郎吉」
中国では昆布はあまり採れません。
そのため昔から日本から輸出されていました。
当時日本は鎖国の真っ最中。中国との貿易はご法度です。
しかし中国で昆布が高く取引されていることから、薩摩藩によって密貿易が行われていたようです。
この貿易を行っていた船に乗っていた一人が富山出身の米田屋次郎吉という人です。
この人は太平洋航路で沖縄経由で中国へ向かっていた長者丸の乗組員でした。
船が遭難してハワイへ
ところがこの長者丸が1838年に遭難しました。
そして5ヶ月間太平洋をさ迷い、その後アメリカの捕鯨船に救助されました。
その後ハワイへ連れていかれ、カメハメハ三世に謁見したそうです。
参考記事
http://www.aimono.com/goods/zirokiti.html
あのジョン万次郎よりも早く海外に渡っていたそうです。
鎖国の時代にすごいですね!
なぜ富山県は昆布の消費量が多いのか?富山と昆布の歴史に迫る!まとめ
というわけで富山県の昆布消費量についてみてきました。
まとめると
- 北前船が現金確保のため、富山に昆布を卸販売していた
- 北前船が昆布をたくさん運んできたので昆布を食べるようになった
- 北海道の昆布産地は富山県人が多い
- 江戸時代に昆布を輸出していた
ということでした。